昨晩、ぼくは
自宅マンションの玄関前で
途方にくれていた。

こんなことは、
冬に家の鍵を無くしたとき以来だ。


今回、鍵は持っていた。

代わりに無かったのは、
片足の自由だった。


ひょんなことから骨折したのだ。



病院で松葉杖をもらった時は、
これさえあれば、どこへでも行ける
と胸を躍らせた。


しかし、実際は違っていた。


自宅から300メートルほど離れた
ファミマまで往復する間に

服は汗でびしょ濡れになり、
欲張って食べ物と飲み物を満載した
ファミマの袋はボロボロに引きちぎれ、

松葉杖は支える力を失った腕のかわりに
ぼくの脇にくいこんでいた。


周囲から
同情と好奇の視線を浴びながら、

ぼくは松葉杖に引きずられるように、
のろのろと進んだ。

10メートル進むごとに
杖に寄りかかって休みながら。



そうして、ようやく
自宅マンションの玄関前まで
たどり着いて、たまらず
手すりに座って一息ついたのだった。


いくら吸っても酸素が追いつかず、
代わりに汗は滝のように溢れ出て
地面に水溜りをつくりそうだった。



玄関前まで戻りながら、
こんな風に

しばらく休まなければ家に帰れない

という奇妙な状況は、もちろん、

この松葉杖が

このコンピュータとネットの時代に、

古典力学の原理しか使わない
クソッタレなポンコツ老いぼれ道具
だから

では、ない。


わが国が

下らないことにアホみたいに
税金を無駄遣いして

一向に
バリアフリー化が進まないから

でも、ない。


ひとえにぼくの
日ごろの運動不足である。


思えば、日ごろ、
ドアの開け閉め以外に
腕の筋肉を使うことなど無いし、

腹筋だって、
階段の昇り降り以外に使っていない。

もう少し鍛えておけばよかった。


こんなことでは、
天変地異で生命の危機に瀕したとき、

まっさきに死ぬことになるだろう。

そうなってからでは遅い。



また、

そんなふうに
日ごろの備えも大切だけど、

日ごろの当たり前への感謝も
忘れないようにしたいと、


失ってから気づく。


そういえば、
前回記事でも紹介した本に、
こんな歌が載っていた。

たのしみは
朝おきいでて
昨日まで

無かりし花の
咲ける見る時

(橘曙覧)



不自由な目にあって初めて

いつもの当たり前が
当たり前じゃない


ことに気づかされた。



未曾有の脅威(ブラックスワン)
が訪れる時代だからこそ、

日ごろの当たり前の幸せに感謝して、
それに胡坐をかかず
危機に備えることが大事だと

痛感した一日だった。