終戦の日を迎えるにあたり
毎年、何らか
本読んだり映画を観たり
するようにしている。
毎年、何らか
本読んだり映画を観たり
するようにしている。
今年はどうしようか
と考えたときに、ふと、
ある方に教えてもらったことが、
と考えたときに、ふと、
ある方に教えてもらったことが、
頭を過ぎった。
・ ・ ・
日本は何か問題があると、
それを個人の責任にして
皆でそれを叩く傾向があるが、
それを個人の責任にして
皆でそれを叩く傾向があるが、
外国では誰かのミスも皆の責任
と考える風土がある。
つまり、問題が起きた背景や構造を
考えることができる。
日本人が一見して無責任なのは、
反対にむしろ個人の責任に対して
厳しすぎるからだ、と。
・ ・ ・
日本人社会における
責任の所在の曖昧さは
責任の所在の曖昧さは
その全体主義に起因すると
(漠然と)
思っていただけの私にとって、
(漠然と)
思っていただけの私にとって、
この指摘は、目からウロコだった。
不正会計、不正操作、
違法ではないが不適切・・
確かに悪いことが悪いのは、
間違いない。
皆で一斉に悪者を吊るしあげて、
それで満足してしまっているような
ところがあるのは否めない。
吊るしあげた後は、
「正義の味方ゴッコ」
の「次の標的」を探す
だけ、というふうに。
間違いない。
皆で一斉に悪者を吊るしあげて、
それで満足してしまっているような
ところがあるのは否めない。
吊るしあげた後は、
「正義の味方ゴッコ」
の「次の標的」を探す
だけ、というふうに。
そうした傾向に対する違和感
はもともとあったのだけれど、
それと
社会における日本人の
振る舞いとを
結びつけて考えたことは
それまで無かった。
社会における振る舞い、
というのは例えば、
会社で会議を開いても、
誰も決めようとしない、
責任を取ろうとしない 。
「みんなで決めた」
「その場の空気が決めた」
それも
「仕方なく決めた」
「他に方法がないから」
という言い訳つき。
というようなことだ。
その背景にある理由が、
その時、わかった気がした。
・ ・ ・
前置きが長くなったが、
そんな気づきがあったからこそ、
今年の終戦の日には、
「特攻の生みの親」として
槍玉に挙げられることも多い、
大西瀧治郎についての
本を読むことにした。
ほんとうは
「特攻の生みの親」は
他にいるはず。
もちろん、個人ではなく、
特攻というものを生んだ
背景であり、構造だ。
その背景や構造は、
もしかしたら今でも
変わらないかもしれない。
だとしたら、
それをひとりの軍人に背負わせて、
あるいは「戦前の日本」という
まるで今の日本とは非連続な
何かの「怪物」を仕立てて背負わせて
表面上だけ片付けてしまうことは、
実はとても、危険なことだ。
実際に体験することは出来ないけれど、
なるべく演出なしで
生の事実に近いことを知りたい。
そう思って、今回は、
ジャーナリズムに近い人が書いた
作品を読むことにした。
(過去に大西瀧治郎に関する
・ ・ ・
読みながら、
色々と感じることがある。
この悲劇は現代も起こりうる。
特定の個人にも、
戦前の日本人という記号にも、
全ての罪を着せて
片付けることは出来ない。
この本に流れている時間の
72年後に、今がある。
この本に登場する人物の孫やひ孫は、
今、私の横にいる人かもしれない。
すべては、繋がっている。
・ ・ ・
最後になりましたが、
戦争で亡くなられた方々の
ご冥福をお祈りします。
ご冥福をお祈りします。
また、当時、子供や孫の世代、
つまりは現代の僕たちの世代
のことを想って、
全力で行動して下さった、
全ての方々に、
改めて深く感謝を申し上げます。
全ての方々に、
改めて深く感謝を申し上げます。