通っていた高校のラグビー部の部室の外には、「今日は法政に勝ったか?」という看板が掲げられていた。高校の風景で他にこれといって記憶はないが、なぜかこの看板のことだけはよく憶えている。この看板、当時はただ「面白い看板だな」くらいの感覚だったと思うが、今思い返すととてもいい。

 「今日は法政に勝ったか?」という言葉には、一文字も無駄がない。「今日は」も「法政に」も「勝ったか?」も、全て。「今日は」という最初の三文字は「未来」よりも「現在」の価値が高まった、不確実性の高い現代を予測していたのだろうか。最後の「勝ったか」という言葉は反対に、成熟した現代において私たちが忘れつつある概念だが、この看板は「それでいいのか」と問いかけているようだ。人生勝ち負けはなくても、人間に生まれたからには目標は持つべきではないか、と。もちろん現代においてはその目標に多様性が認められるべきであり、だからこそ「法政に」という言葉がちゃんと入っている。具体的な目標だ。

 先日、徒競走で「順位をつけない」運動会が、空想ではなく実在するという話を聞いて頭がクラクラした。「世界でひとつだけの花」になるのは心地よいが、市場で評価されない花ばかりが生み出され、長い目で見ると全員で「ゆでガエル」となっていたのでは本末転倒だ。これ以上、日本社会にゆでカエルを送り込まないでいただきたい。

 今日の目標がないのに、10年後の夢を語る人間は自分を欺く詐欺師だ。具体的なベンチマークがなく個性を叫ぶ人間は何者にもなれない。勝ち負けは関係ないと言っている人間は、はじめから負ける言い訳をしているのだから勝てるわけがない。「今日は法政に勝ったか?」という言葉はそうした甘えの前にたった10文字で、厳然と存在する。あの看板は、まだ母校に掲げられているだろうか。